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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

西アジア

 2004年11月27日 
 今更ながらイラクの歴史

 イラクは面積43万平方キロ(日本の1.2倍)、人口2500万の国である。
 「イラク」とはアラビア語で「崖」、転じて谷底・低地という意味がある。7世紀にアラビア半島から北上してきたアラブ人たちは、ネフド砂漠や絶壁を越えてティグリス・ユーフラテスの両河の流域に達したが、標高の高いアラビア半島から来た彼らにしてみれば、イラクの沖積平野は巨大な「谷底」に見えたのだろう(一方イラクの東側には険しいザグロス山脈が聳える)。古代ギリシャ人にこの地域はメソポタミア(河の間の地)と呼ばれていた。その指す領域はほぼ同じなので、ここでは「イラク」で統一する。
 ティグリス・ユーフラテス河というと大河のように聞こえるが、意外にもユーフラテス河の実際の水量は信濃川よりやや多い程度であるという(水量が大きすぎるとむしろ治水が難しく利用しにくい)。ティグリス河はその倍の水量がある(エジプトのナイル河はさらにその倍)。2003年に倒されたサダム・フセイン政権は、この両河の水資源を巡って上流でダムを建設するシリアやトルコと対立したが、水が文明の死命を制するのは古代からで、特に降水量が少なくこの両河への依存度が高いイラクでは尚更のことだろう。

 アフリカで発生した人類は、北上して中東を通ってユーラシア各地に拡散したらしい。イラク北部のシャニダール洞窟では中期旧石器時代(6万年前)に属するネアンデルタール人の骨が出土しているが、その周りには赤土が掛けられ花が供えられていたことが分かっており、「人類最古の埋葬儀礼」として著名である(花については異説あり)。
 紀元前7000年頃、シリアやパレスチナにやや遅れて北イラクの山岳縁辺地帯でも農耕が始まる(ハッスナ及びハラフ文化)。この地域では年間降水量が年間200mm(麦の栽培に必要最低限の降水量)を越えており、天水農耕が可能だった。やがてこの農民たちは徐々に南方の沖積平野に進出した。この地域で雨は頼りにならないが(バグダードの年間降水量は100~200mmだが、年によるばらつきが非常に大きい)、土地は肥沃であり用水路で水を引きさえすれば、集中的な農業経営が可能で豊かな実りが期待できた(サマッラ文化)。さらに農民はイラク南部の低地・低湿地にも進出(ウバイド文化)、その農業生産力はむしろ北方のそれを凌駕するようになる。
 しかし砂漠ならぬ土漠とでもいうべき南イラクには石材も木材もなく、粘土と羊毛、小麦以外の資源の多くを外部に依存せざるを得なかった。農業の余剰生産、そして交易に依存する経済が、この地に世界最古の都市、政治・宗教組織、階層的社会、国家、つまりは文明を生み出すことになった(ウルク期)。「歴史はシュメールに始まる」という言葉があるが、世界最古の文字(楔形文字)もイラク南部で発明された(ついでながらビールもそうだ)。この文字は物資の数量管理の必要性から生まれたと見られており、商業を重視する中東の伝統の偉大な産物と言えるだろう。紀元前3000年頃には南イラクの都市国家ウルクを中心とする交易網は中東全体に広がっていた。ちなみにウルクは現在(※~2006年まで)自衛隊が駐屯するサマワの近郊にあり、ドイツ隊による発掘が続いていた。
 イラク南部ではウル、ウルク、キシュ、ラガシュ、イシンなど多くの都市国家が分立していた。これらの都市は、収穫量が播種量のときに100倍という豊かな穀物生産に頼っていた。洪水伝説など、この当時の文学は聖書にも大きな影響を与えている。しかし乾燥した気候での灌漑用水による連作は塩害を引き起こして農業生産に深刻な影響を与え、それも関係するのかイラクの覇権は徐々に北方、さらには外部勢力へと移っていく。

 紀元前2330年頃にアッカド王サルゴン、紀元前1800年頃のバビロン王ハンムラビ(「目には目を」の法典で有名)といったイラク中部の都市国家によりイラク統一が行われて領域国家が出現するが、肥沃なイラクは周辺民族にすれば羨望の的であり、しかも平野が多く守りにくい地形的な欠点がある。バビロンは北方のヒッタイト人により攻略され、その後はカッシートやミタンニといった北方の外来民族の支配を受けるようになる。イラク史の大部分を占める、外部勢力による支配の嚆矢である。
 紀元前1千年紀前半には世界最初の帝国とも言うべき、北イラクを本拠とするアッシリア、さらにバビロニア(ユダヤ人をバビロンに捕囚したネブカドネツァル2世)が中東に覇を唱えたこともあったが、紀元前538年にはイラン高原の騎馬民族ペルシア人に征服される。以後およそ2000年以上にわたり、イラクは征服王朝による大帝国の一部とされることが繰り返される。
 200年間中東全域を支配した大帝国ペルシア(アケメネス朝)は、さらに遠隔・辺境の地にあったマケドニア(ギリシャ北部)のアレクサンドロス大王により征服される。アレクサンドロスはその首都バビロンで紀元前323年7月に33歳の若さで急死し、メソポタミアはその部将セレウコスの領するところとなる。
 イラン高原に本拠を持つアルサケス朝(パルティア)は紀元前141年にセレウコス朝からイラクを奪い、イラクは再びイラン起源の王朝の支配下に入る。パルティアは地中海の覇者ローマ帝国とユーフラテス河を挟んで度々戦争し、115年にはトラヤヌス帝に奪われたこともあったが、概ねイラクを支配下に置いていた。3世紀始めにパルティアに代わったササン朝ペルシアもイラク支配を維持し、西方のローマ帝国(のちビザンツ帝国)と和戦を繰り返している。
 外部王朝の支配下にあるとはいえ、イラクでは東西文化の接点・シルクロードの幹線として、ハトラやクテシフォンなどの都市が栄えた。

 634年、ハーリド率いるイスラム教徒軍はイラクを攻略、642年にはササン朝を滅ぼしてイラクやイランはイスラム教徒の支配下に入り、住民にはイスラム教に改宗する者が多かった(ただし現在もキリスト教徒が居る)。661年、中東全域を制覇したイスラム教徒の内部で抗争が起き、預言者ムハンマドの娘婿アリーやその息子でカルバラ(イラク中部)で殉教したフセインを正当な指導者とするシーア派と、多数派のスンニ(「慣行」)派に分裂する。スンニ派はムハンマドと血縁の無いのウマイヤ家のムアーウィヤをカリフ(ハリーファ=教主)として支持し、イラクはウマイヤ朝の支配下に入る。ただナジャフにアリーやフセインの廟があるイラクではシーア派が多く、現在イラク国民の6割以上がシーア派に属している。
 750年にシーア派叛徒の助けでウマイヤ朝を倒したアッバース朝は、一転してカリフを名乗り、762年にティグリス河のほとりに新都を建設する。「マディーナ・アッサラーム」(平安京)と呼ばれたこの都市は、文化的影響力の強かったペルシア語で「バグダード」(神の与えたもの)とのちに呼ばれるようになり、以来イラクの中心都市となった。農作物の改良で農業生産も再び向上し、中国の長安と並ぶ世界最大の都市となったバグダードは、8世紀末のハールーン・アル・ラシードの治世に最盛期を迎え、「千一夜物語」の世界が反映するように世界中の情報が流れ込み、イスラム世界の政治・経済・文芸の中心として栄えた。
 9世紀にアッバース朝は小首長国に分裂、中央アジア出身の傭兵だったトルコ系軍人が中東の政治・軍事的実権を握り(文化・経済面ではイラン系が活躍)、イラン系のブワイフ朝(945年以降イラクを支配)を逐って、トルコ系のセルジューク朝が1055年にバグダードに入城、アッバース朝のカリフは宗教的権威しか持たなくなった(日本の天皇と将軍の関係に近い)。さらに1258年に来襲したフレグ率いるモンゴル軍にバグダードは攻略され、カリフも殺害されてしまう。この時代イラクの人口は半減したといい、モンゴル軍がバグダードを略奪し農業用水も破壊したためと説明されるが、これはむしろ塩害や気候変動による農業生産の低下が原因であると思われる。
 モンゴルのフレグ・ウルス(「イルハン国」)ののち、イラクは中央アジアのチムール朝などといったモンゴル=トルコ系王朝の支配を受けるが、やがてイランのサファヴィー朝とトルコのオスマン帝国による争奪の場となり、1534年にスレイマン大帝に征服され北方のオスマン帝国の支配下に入った(1638年にオスマン帝国の支配が確定)。オスマン帝国が第一次世界大戦で敗れる1918年までそのイラク支配は続く。アジア・ヨーロッパ・アフリカにまたがる大帝国であるオスマン帝国の地方属州(モスル・バグダード・バスラの各州)として、イラクやバグダードの地位は低下した。
 
 第一次世界大戦中の1917年にイギリス軍はイラクを占領、戦後はそのまま国際連盟のイギリス委任統治領とされた。イギリスはオスマン帝国に対して共闘したアラビア半島の名家ハーシム家のフセインを国王に据えて、1932年にイラクを独立させ、他動的ながらもイラク地生えの国家が復活した。しかしイギリスはイラクに空軍基地を設け、第二次世界大戦中にも親ドイツ派のクーデタ(1941年)を鎮圧するなど、自動車・飛行機の普及で需要が高まった石油資源のあるイラクは、イギリスの属国という地位に甘んじた。
 ナセルによるエジプト革命(1952年)でスエズ運河を失ったイギリスの中東政策が破綻する中、1958年にイラクでもナセルの影響を受けた軍部の革命が起きて親英派の国王は殺害され、イラクは共和制国家となる。その後は軍部がクーデタを起こして軍人大統領が追放・殺害されるということが繰り返される。
 1968年、汎アラブ社会主義を唱えるバアス党がクーデタで政権を奪取、アフマド・ハサン・アル・バクルが大統領になる。1972年に西欧企業の管理下にあった油田を国有化し、石油はイラクの輸出額の実に9割以上を占めることになる。アラブ主義の高揚は一方で、人口の1割を占めるクルド人(北部に集中)の抵抗とそれに対する弾圧(強制移住)を招いた。1988年にイラク軍がクルド人一般市民に対して毒ガスを使用したハラブジャ事件は、クルド問題を改めて世界に訴えた。

 1979年にアル・バクルに政権を禅譲させて大統領になったスンニ派出身のサダム・フセインは、折しも隣国イランで起きていたシーア派のイスラム革命に危機感をもち、翌年イランに侵攻する。伝統的にイラクの友好国だったソ連、シリアを除くアラブ諸国のほとんどや、イスラム革命を忌避するアメリカなど西側諸国までもがイラクを支援し(1981年、フランスの協力で原子炉が建設されたが、サダムが核兵器をもつことを危惧したイスラエルによる空爆で破壊された)、8年に及ぶ不毛なイラン・イラク戦争が続いた。この戦争は国連の仲介で1988年に停戦となったが、イラクには多大な外債と100万人規模にまで拡大した軍隊が残された。
 サダムは中東で群を抜くこの兵力を利用して、1990年8月に隣国クウェートに侵攻し併合を宣言する(クウェートはかつてオスマン帝国のバスラ州の一部だったが、1961年にイギリスが分離独立させた)。アラブ諸国も含む国際社会はこれを非難し、アメリカ主導の多国籍軍は国連決議に基いて翌年1月に開戦、圧倒的な軍事技術の前に敗れたイラク軍はクウェートから撤退した。国連による経済制裁はこの湾岸戦争後も実に12年続きイラク経済を圧迫したが、シーア派やクルド人の叛乱を鎮圧したサダム体制は揺るがなかった。サダム・フセイン大統領は自らを古代バビロニアの王と同列に扱うなどして「イラク国家」意識を宣伝する一方、湾岸戦争後はイスラム意識を前面に押し出してアラブ諸国の共感を得ようとした。
 2003年3月、対テロ戦争を名目とした米英連合軍は宣戦布告無くイラクに侵攻、3週間ほどでイラク全土を制圧し、その在任期間中のほとんどが戦争状態だったサダム政権は崩壊、サダムは降伏宣言無しに身を隠したが12月に逮捕された(2006年12月にシーア派中心のイラク新政府により処刑)。一方アメリカ指導下の暫定政権が発足したが、密告による支配体制だったサダム政権という「たが」を失ったイラクでは武装勢力が跋扈、アメリカ軍や一般市民に対するテロ攻撃が相次ぎ治安が極度に悪化しており、イラク国家再建の前途は多難である。



 2006/08/05
 レバノンの歴史

 レバノンにはだいぶ前にシリアから三日間だけ行ったことがあるが、当時レバノン北部は半ば隣国シリアによる占領下にあった。あちこちにアサド大統領の肖像を掲げたシリア軍の検問所があり、かつて「中東のパリ」と呼ばれた首都ベイルート(人口200万人)にはまだ内戦(1975~90年)の傷跡である弾痕やロケット弾による大穴が建物に生々しく残っており、僕らのお目当ての国立博物館も閉鎖中だった。
 それでも当時のハリリ政権の主導する復興建設ラッシュ下にあって活気があり、欧米風の立ち居振る舞いで外国語を流暢に操るレバノン人たちが高層ビルの立ち並ぶ新市街を闊歩するかと思えば、半ば廃墟のベイルート郊外には出稼ぎのシリア人街(市場)があって人いきれに溢れていた。
 レバノンはアラブ料理の本場としても著名であるが、僕らは海岸のレストランで珍しいエビ料理に舌鼓を打った。アラブ世界の伝説的女性歌手フェイルーズもレバノン出身で、「愛しのベイルート」という曲を残している。
 僕らはその他ローマ時代の大神殿で有名なバアルベック(ヒエロポリス)と、「パピルス」の語源となった古代都市ビブロス(ジェベイル)に行ったのだが、バアルベックはイスラエル空軍の爆撃を受けた直後だった。それもそのはず、ここベカー高原は反イスラエル武装組織ヒズボラの拠点であり、あちこちにイスラム教シーア派の黒衣に身を包んだ宗教指導者の肖像が掲げてあった。一方ベイルートの北郊にあるキリスト教徒地区ジュニエでは、道端に聖母マリアと幼子イエスのイコンが祀られていた。

 レバノン共和国は地中海の東端にある小国で、1万平方キロという岐阜県とほぼ同じ大きさの国土に、静岡県と同程度の400万人ほどが住んでいる。そのうち30万人ほどは南のパレスチナ(イスラエル)から逃げてきたパレスチナ人だが、後述する内政上の複雑さから、レバノン政府は彼らへの国籍付与を認めておらず、パレスチナへの帰還を主張している。北隣は同じアラブ人の国シリアだが、イスラエル・シリア共に中東の軍事大国である。
 狭い国土ながらレバノンは地形の起伏に富んでおり、およそ200kmに及ぶ海岸線のすぐ背後に3000m級の山が並ぶレバノン山脈が迫っている。この山脈は万年雪を戴いており、その雪の白さ(ラバン)が「レバノン(ルブナン)」という国名の語源となったという。このレバノン山脈の中腹はかつて、この国を象徴し国旗にもあしらわれているレバノン杉に覆われていたのだが、現在は原生のものは数箇所しか残っていない。古代のフェニキア人が豊富なレバノン杉で大船を作って目の前に広がる青い地中海に漕ぎ出したのは、この地形を見れば不思議ではない。一方シリアとの国境地帯をなすベカー高原など内陸部は概ね厳しい乾燥地帯だが、灌漑水路によって豊かな農地に変えることも出来る。
 レバノンの一人当たりGDPは5000ドル弱と、産油国を除けば中東で最も高い水準だが、この国はフェニキア人の昔から商業の国だった。古来様々な人々が行き交い、またこの複雑な地形ゆえに、この国には18もの宗派が混在している。イスラム教のシーア派、スンニ派、ドルーズ派、アラウィ派、キリスト教のマロン派、ギリシャ正教、アルメニア正教、カトリックなどである。ただし言語は概ねアラビア語が話されている。
 かつて交易の活力や利点となったこの多様性は、国民国家を運営する上ではむしろ障害となり、ついには激しい内戦を引き起こした。内戦が終結した現在も大統領はキリスト教、首相はスンニ派、国会議長はシーア派から出すことが定められており、また国会の議席も宗派ごとに厳密に配分されている。

 上述のように、古代のレバノンは海洋交易民族フェニキア人の本拠地であった。シドン、テュロス、ビブロスなどの都市国家を拠点にした彼らは、紀元前1000年前後には地中海全域に漕ぎ出し、カルタゴ(現チュニジア)やスペインに植民地を建設し、東西交易の主役となった。フェニキア人はギリシャ人やエトルリア人などに多大な文化的影響を与え、現在西洋で使われているアルファベット(アラビア文字もそうだが)の起源がフェニキア文字にあることはつとに知られている。伝説では「ヨーロッパ」という大陸名はテュロス王の娘エウロペに因んでいるとされることが、その影響の大きさを象徴している。なお「フェニキア」という地名は、その特産品の貝紫のギリシャ語名に因んでおり、紫に染めた絹織物は西方の支配者層の垂涎の品だった。
 経済的には強力だったフェニキア人だが、後背地の小ささゆえに政治的には常に近隣の大帝国(アッシリア、バビロニア、ペルシア)の脅威を受け、むしろその支配下で特権を得た。しかしペルシア帝国が滅亡したのちの紀元前3世紀頃になると、海上交易の主導権をギリシャ人に奪われ、のちにローマ帝国に服属、またレバノン杉の乱伐による資源の枯渇もあって目立たなくなってゆく。それでもなお東方の特産品である絹や紙(パピルス)などの中継交易で栄え、「聖書(バイブル)」の語源もフェニキア都市ビブロス(ギリシャ語名)にある。

 636年にヤルムークの戦いでイスラム教徒軍がビザンツ帝国を破ると、キリスト教徒が多かったレバノンもイスラム教の支配下に入った。しかしレバノンには中東の他地域に比べキリスト教徒が多く残ったうえ、1017年頃にはイスラム教ドルーズ派が成立した。当時のレバノンの支配者であるシーア派のファーティマ朝(エジプト)はドルーズ派を異端として弾圧したが、ドルーズ派はレバノン山中に立て篭もり抵抗を続けた。
 ファーティマ朝は1071年にトルコ人のセルジューク朝にレバノンを奪われるが、まもなく1106年にはヨーロッパから十字軍が侵入、トリポリ公国を樹立した。1291年にエジプトのマムルーク朝によって十字軍最後の砦アッコンが陥落するまでのおよそ200年間、この地はキリスト教とイスラム教の抗争と交流の地となった。
 1517年、トルコのオスマン帝国はマムルーク朝を滅ぼし、レバノンは三大陸にまたがるオスマン帝国の支配下に入った。オスマン帝国はドルーズ派を重用して自治権を与え、間接的にレバノンを支配した。一方で16世紀以降経済成長が始まったヨーロッパ諸国はレバノン商人との東方交易を重視し、17世紀初頭にはイタリアのトスカナ公国の援助でレバノンが自立の動きを見せることもあったが、すぐにオスマン帝国によって鎮撫されている。ヨーロッパとの交易ではキリスト教マロン派が活躍し、経済的実力をつけていった。

 オスマン帝国の弱体化が明白になった19世紀初頭、エジプトはフランスの支援でオスマン帝国から自立し、レバノンやシリアを征服した。イギリスやロシアの介入によってオスマン帝国はレバノンを奪還したが(1841年)、同時にドルーズ派首長による間接統治を改め、中央から総督を派遣し直接統治に切り替えた。この体制はマロン派とドルーズ派との対立激化を招き、1860年に双方が衝突、一般市民への殺戮に発展した。騒然とした世情の中、アメリカやヨーロッパに移民する者も多かった。
 第一次世界大戦が始まると、オスマン帝国はドイツと同盟してイギリスやフランスの連合軍と戦ったが、連合軍による海上封鎖やドイツ・トルコ軍の駐留によって飢饉や疫病が起き、当時のレバノンの人口の5人に1人が死んだという。アラブ民族主義が覚醒したこの戦争は連合国の勝利に終わり、国際連盟の裁定によって1920年にレバノンはシリアと共にフランスの委任統治領とされた。ドルーズ派の対仏反乱が起きたりしたが、フランスはマロン派の協力で統治した。
 第二次世界大戦が起きてフランス本国がドイツ軍に占領されると、その植民地ではドイツ傀儡のヴィシー政権と自由フランスに分かれて争ったが、自由フランスはシリアとレバノン住民の協力を得るために独立を約束し、自由フランスが勝った後の1943年11月、レバノンの独立が宣言された。レバノンは1945年に設立された国際連合の原加盟国にもなっている。

 しかし独立したレバノンは南隣のパレスチナに建国されたユダヤ人国家・イスラエルとの戦争に巻き込まれた上、各宗派の主導権争いが続き、内政が安定しなかった。1958年には親欧米派のキリスト教徒とアラブ民族主義者が衝突し、大統領がアメリカ軍の介入を要請してようやく事態を沈静化出来た。
 一方で在外レバノン人の経済力やスイス銀行に倣ったレバノン銀行の存在、さらにキリスト教徒の欧米との繋がりもあって、レバノンは経済的な発展を享受して「中東のスイス」、そして首都ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれた時期もあった。
 しかし1970年、ヨルダンを追われたPLO(パレスチナ解放機構)が本部をベイルートに移すと、レバノンはパレスチナ紛争に巻き込まれていくことになる(日本赤軍がレバノンのベカー高原で軍事訓練を受けたことはもう忘れられただろうか)。1973年には政府軍とパレスチナ民兵の間で交戦があり、パレスチナ人の存在は微妙なバランスに立っていたレバノン内部の勢力争いに影響し、ついに1975年にキリスト教徒とイスラム教徒の間で内戦が始まった。翌年にはシーア派を支援する隣国シリアが介入した。やがて国際平和維持軍が派遣されたものの、内戦は停戦破りを繰り返して一向に収まらず、1983年にはベイルートの国際平和維持軍駐屯地に対する爆弾テロでアメリカ兵230人、フランス兵58人が殺害され、両国は手を引いた。
 一方レバノンを拠点としたPLOの攻撃に業を煮やしたイスラエルは、1982年にレバノンに侵攻(この間イスラエルの意を受けたキリスト教徒民兵によるパレスチナ人虐殺事件も起きている)、PLOをレバノンから追って1985年に撤退したが、越境攻撃を防ぐためイスラエルとの国境地帯のレバノン領の占領を続けた。PLOとは別に、1979年にイスラム革命が起きたイランの援助でシーア派民兵組織ヒズボラ(「神の党」)が創設され、イスラエルに対する攻撃を続け、やがて隠然たる勢力を持つに至る。

 1987年、再び隣国シリアが軍事介入し、その軍事力で各民兵勢力を抑えつけ、1989年のタイフ合意及び1990年のシリア軍によるキリスト教民兵拠点の攻略によって内戦は一応の終結を見た。シリア軍の駐留はその後も続き、「兄弟国」と位置づけられたレバノンは実質的にシリアの影響下に置かれることになった。
 20年ぶりに行われた1992年の総選挙では、ラフィーク・ハリリ(スンニ派)が首相に選出された。実業家としてサウジアラビアやフランスと強いコネを持っていたハリリは、外資を導入してレバノン復興政策を精力的に推し進め一定の成果を得たが、同時に多大な累積債務が問題になった。
 一方で南部に拠点をもつヒズボラはイランやシリアの援助を受けてイスラエルに対する攻撃を続け、イスラエルは報復としてレバノン領内を空爆した。レバノン政府はシリア軍の後ろ盾で国土の大部分を実効支配していたに過ぎない。イスラエル軍は2000年にレバノン国境の占領地からも撤退したが、その跡にはすぐにヒズボラが入り込んでイスラエルへの攻撃を始めた。

 ハリリは3期の長きにわたって首相の座にあった。しかしアメリカがイラク戦争(2003年)以来シリアへの圧力を強め、レバノンからのシリア軍の撤退やヒズボラの武装解除を求めた国連決議1559が可決されると、それへの対応や大統領の任期延長案を巡ってエミール・ラフード現大統領(キリスト教マロン派)と対立、2004年に辞任した。
 シリア軍のレバノンからの撤退を主張したハリリは、2005年2月にベイルートで暗殺された。事件の背後にシリア情報機関が取り沙汰され、レバノンは反シリア派と親シリア派の双方のデモで騒然となった。しかしアメリカやフランスなどの圧力もあり、シリアは同年4月までにレバノンに駐留していた全軍を撤退させた。直後の総選挙でも反シリア派が勝利を収め、各勢力による円卓会議で脱シリアが模索されようとしていた。
 2006年7月、ヒズボラによるイスラエル兵拉致をきっかけに、イスラエルはレバノン国内のヒズボラ拠点掃討を目指して大規模な軍事作戦を展開しているが、それは現在我々が目の当たりにしているところである(同年8月に停戦)。



December 3, 2006
アジア大会/カタールの歴史

 カタール(原語であるアラビア語に忠実に発音すると「カタル」らしいのだが、なんだか病名みたいなのでここでは慣例に従う)はペルシア湾に面する面積1万平方キロ余(秋田県ほど)、人口80万余(福井県ほど)の国である。その国土はアラビア半島(サウジアラビア)から北側のペルシア湾に向かって突き出した南北180km、東西80km程の半島と小島で、海を挟んでバハレーンやアラブ首長国連邦と接している。この二国とはカタールを結ぶ長大な橋とリニア線の建設プロジェクトが進行中である。
 国内最高点が110mという平坦な国土はほとんどが砂漠で、時に高さ40mに達する砂丘もある。こうした国土ゆえに農業にはほとんど期待できず、農地は国土の0.4%に過ぎない。陸地が不毛な反面、海は古来さまざまな富をもたらしてきた。珊瑚礁が広がる沿岸には多様な魚がいて漁業が盛んで(鯨やイルカ、ウミガメもいるが漁業の対象ではない)、長らくこの地の特産品であった真珠貝も生息している。
 そしてカタールの富の最たるものが、現代人の生活に欠かせない石油と天然ガスである。鉱物資源が輸出総額の8割を占めており、日本が最大の輸出相手国となっている。石油は日産99万バレルで全世界シェアの1.2%に過ぎないとはいえ、この国に莫大な富をもたらしていることは間違いない。カタールの一人当たり国内総生産は4万ドル弱にも達し、社会福祉制度が完備しており教育費や医療費は無料である。人口30万の首都ドーハには現代的な建築物が立ち並び、400haの巨大人工島(ザ・パール)や巨大旅客機エアバスA380型機導入に備えた国際ハブ空港が建設中である。

 地下資源産業に従事させるため、カタールはイランやパキスタン、バングラデシュ、インド、スーダンなどから多くの労働者を受け入れている。上に「カタールの人口80万余」と書いたが、そのうち70万人ほどは外国人労働者であり、「生粋の」カタール人(アラブ人)は総人口の15%ほどに過ぎない。公用語はアラビア語であるが、実際には人口の6割がペルシア語やウルドゥ語を母語としており、英語が共通語になっている。外国人労働者を除いて計算すれば、カタールはルクセンブルクを抜いて世界で最も豊かな国であると言われている。
 石油に依存するカタールだが、「石油後」を見越して(ただしカタールの石油可採年数はあと40年あるそうだが)天然ガスの開発を進めると共に、金融業や教育研究、さらに観光誘致に莫大な投資をしている。観光の目玉は巨大建築物、ゴルフ、そして競馬、ラクダ競技、鷹狩といった砂漠遊牧民体験といったところだろうか。もっとも、イスラムの教えに則って厳しいインターネット規制があり、ヤフー・グループのサイトなどは見られないとのことだが。
 豊富な資金を背景にスポーツ振興にも力を入れており、サッカー国内リーグに有名選手を招いたり、世界的な自転車競技大会を開催するなどしている。今回のアジア大会開催もその一環であるが、さらにオリンピック招致も目指す。日本ではサッカー日本代表の「ドーハの悲劇」(1993年)が有名ですね。

 カタールには石器時代に狩猟採集民が住んでいたことが分かっているが、紀元前5000年頃から気候の乾燥化が進み、辺りは一面の砂漠となった。海岸や島嶼では、この地の特産品である真珠や貝紫を採取するために営まれた青銅器時代の集落や、インドと中近東を結ぶ交易船(ダウ船)が停泊した古代・中世港湾の遺跡がいくつか発見されているものの、そうした例外を除けば遺跡はほとんど見られず、長らくカタールは砂漠の遊牧民ベドウィンが時々立ち寄るのみの地となっていたらしい。
 16世紀にインド洋交易に乱入したポルトガル人はペルシア湾岸に多くの要塞を築いているが、カタールには全く残されていないことからも、重要度が低かったことが窺える。なお628年にはイスラム教が及んでこの地の少ない住民もイスラム教徒になっている。
 1760年頃、ベドウィンの一部族アル・サーニ氏がカタール北西部に移住し、同じくクウェート辺りから移ってきたベドウィンのアル・ハリーファ氏と抗争を繰り広げる。アル・ハリーファ氏が1783年にカタール沖の島・バハレーンを征服してカタール北部を支配したのに対し、カタール東岸にあり当時は一寒村に過ぎなかったドーハを根拠地とするアル・サーニ氏は、真珠採取の中心地ズバラをアル・ハリーファ氏から奪って勢力を拡大した。アル・サーニ氏は真珠利権を狙ったペルシア(カージャール朝)やオマーン、さらにはアラブ人海賊の攻撃も撃退した。この建国は1822年とされている。

 1867年、カタールの支配を巡って再びアル・サーニ氏とアル・ハリーファ氏との間で衝突が起きた。アル・サーニ氏はバハレーン攻撃に失敗したものの、当時インド支配を確立しペルシア湾を重視し始めていたイギリスがこの抗争に介入する。アル・サーニ氏と保護協定を結んだイギリスの圧力によってアル・ハリーファ氏はカタール支配を放棄し、バハレーンの支配者として現在に至る。ここにアル・サーニ氏によるカタール統一が完成した。
 イギリスのペルシア湾進出に対抗して、イラクを支配するオスマン(トルコ)帝国もそれまで半ば放置していたペルシア湾の経営に乗り出した。オスマン帝国はカタールに軍を送り、ドーハにも部隊が駐留した。オスマン帝国の容喙に対抗するため、アル・サーニ氏は当時アラビア半島に勢力を持っていたイスラム教ワッハーブ派(スンニ派の一派で、イスラム原理主義運動の先駆)に接近した。
 オスマン帝国やワッハーブ派の影響力を排除するため、イギリスは1913年に再び介入した。第一次世界大戦の勃発によりイラクがイギリスとトルコの戦場となると、トルコ軍は1916年にカタールから撤退し、カタールはイギリスの保護領となった。イギリスがカタールに自治を認め防衛の援助をする代わりに、カタールは他の首長国との抗争が禁じられ外交一切はイギリスが行うと定められた。
 不毛の地であるカタールは特産品である真珠の輸出に依存していたが、1920年代に日本で御木本幸吉が真珠の養殖に成功すると世界の真珠価格が大暴落、カタール経済は大打撃を受け、移住するものが相次いだ。この事態にカタールはやはりペルシア湾の特産品である石油に目をつけ、1935年にイギリスなど西欧資本の石油会社に採掘を許可、同社の調査により1939年にカタールでも良質な油田が発見された。石油の本格的輸出は第二次世界大戦後の1949年に始まり、カタールには莫大なオイル・マネーが流れ込むことになる。

 イギリスはイラクやインドの独立を許したのちも、石油権益などの理由からカタールを保護領としていたが、1968 年にスエズ運河以東からの撤収を宣言、ペルシア湾岸の保護領を全て放棄した。これら旧保護領はアラブ首長国連合の設立を協議したが、カタールとバハレーンは参加を拒否し、同年9月3日を以って独立した。
 1972年に父親を逐って首長(エミール)位についたハリーファ首長は、1974年に西欧企業の支配下にあったカタールの油田を完全国有化(中東では最初の例)して国家による産業振興に努める一方、絶対君主制はそのまま維持された。1981年にはイラン・イラク戦争で不安定化するペルシア湾岸情勢に対応して、サウジアラビアなどと共に湾岸協力会議を設立している。
 1990年にイラクが湾岸協力会議の加盟国クウェートに侵攻すると、カタールはアメリカに協力してイラク包囲網に加わっている。以後カタールは親米路線をとり、アラブの宿敵とされていたイスラエルとも実利的な理由から接触、イスラエルはカタールに常駐の貿易代表部を置いている。1998年にはアメリカ中央軍司令部がカタールに移転したが、2003年のイラク戦争の際にもアメリカ軍の作戦司令部となっている。
 1995年、絶対君主制を続けるハリーファ首長はクーデターにより息子のハマドに逐われた。ハマド首長は民主化を進め、2003年に憲法が制定され立憲君主制となり、男女共に参政権が認められた。もっとも、首長の権限は依然強いようである。1996年に設立され先日開局10周年を迎えた放送局「アル・ジャジーラ」は、アフガニスタンやイラクでの独自報道で世界的に注目されたが、首長の資金援助を受けている。
 最近の事件としては、カタールに亡命していたチェチェン独立派の元大統領が2004年に爆殺される事件が起き、カタール当局がロシア人3人を逮捕したが、ロシア側の抗議により釈放されている。また今年10月チュニジア政府は、「アル・ジャジーラ」が同国反政府勢力の宣伝を垂れ流している、としてカタールとの外交関係を断絶した。



2007/03/05
リビア

 リビアというと、一昔前のアメリカ映画ではテロリストの親玉として描かれていた。イスラム過激派がその地位に代わって久しいが、日本人には未だあまり好印象はないだろう。
 だいぶ前の語学修行の時のリビア人の知り合いは、こうしたリビアのイメージに反して明るく知的で、自国の内政や教育制度を賞賛していたのを覚えている。リビアの石油施設に出稼ぎに行ったというトルコ人に会うことも多い。

 現在のリビアの正式国名は「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ」と訳される。アラビア語でジャマーヒリーヤは共和制の意だが、あえてそう訳さないのはこの国独特の政治体制にある。この名前の示すところは、イスラムに基づく社会主義・民族主義を国是とした直接民主主義による人民主権の実現とのことだが、2000年に中央議会が解散、地方議会や人民委員会に立法権や行政権を委譲している。
 この国の指導者といえばムアンマル・アル・カダフィだが、1969年にクーデタで王政を倒して以来、実質的に国家指導者の地位にある。ただし彼自身は1979年に全ての公職を辞して「革命指導者」を名乗り、法的な元首は別にいる。カダフィは虚飾を嫌い、砂漠遊牧民の暮らしを好んでテントに起居しているという。その彼も後継者には自分の息子を考えているようだ。
 
 リビアは面積は176万平方キロ(日本の4.6倍)もあるが、人口は日本の20分の1の560万人(兵庫県と同程度)しかない。これは国土の多くがリビア砂漠やサハラ砂漠に覆われ可耕地がわずか2.5%しかなく、雨の時のみに水が流れる涸れ川(ワディ)ばかりで川が一本もないことによる。
 人口はこの30年で倍以上に増え増加率は年3%以上で、人口の半分が16歳以下という「若い」国である。人口の8割以上は狭いながらも肥沃な海岸部に集中するが、砂漠にも遊牧民が暮らしている。国民の大部分はアラブ人だが、遊牧民であるベルベル人などもいる。国民の97%はイスラム教徒(スンニ派)で、棄教することはほぼ国籍放棄を意味する。
 砂漠ばかりの土地柄ではあるが、この国の地中には石油や天然ガスが豊富に埋蔵され、石油は日産160万バレルに上りイタリアやドイツに輸出している。この地下資源で得られる富のおかげでリビアはアフリカで最も豊かな国であり(一人当たりGDP4120ドル)、教育費などは無料という。
 リビアは地中海南岸・アフリカ大陸北端にある国だが、東でエジプト及びスーダン、南でチャドとニジェール、西でチュニジア及びアルジェリアと接している。地中海を挟んだ対岸はマルタやイタリア、ギリシャであり、これらの国々とも海を越えた歴史的関係があった。
 「リビア」という地名はそもそもエジプト西方の砂漠地帯を指していたが、古代ギリシャ人にとってはアフリカ大陸全体を示す言葉だった。この古代名が復活するのは、イタリアの植民地だった1934年になってからである。リビア国内ではエジプトに近い北東部のバルカ(キュレナイカ)、北西部のトリポリタニア、そして内陸のサハラ砂漠内にあたるフェザンといった地方がある。

 今は果てしない砂の海となっているサハラ砂漠は、かつては緑に覆われ水の豊かな地域だった。それを示すのはリビア南西部アカクス山中に残る紀元前9000年頃に描かれた岩壁画で、顔料や線刻でキリンなどが描かれている。紀元前6000年頃には牛の牧畜が行われていたことも壁画から分かる。
 しかし紀元前3000年頃からサハラ地域の乾燥化が始まった。画題は人間が主になるが、彼らも東のナイル河や南のニジェール川流域に移住を強いられた。さらに紀元前1000年以降は壁画(ギリシャ式の馬車が画題)を描くことさえ激減し、ラクダに乗る遊牧民が行き交うだけとなった。
 砂漠を越えて来るリビアの遊牧民は、ナイル河沿いに栄えた古代エジプト文明にとってしばしば脅威となった。早くも紀元前2300年頃にその記録があり、特に紀元前1200年頃、エジプト王(ファラオ)ラムセス3世は国境でリビア人を撃退したことを碑文に記している。リビア人は常に外敵だったわけではなく、エジプト文明に加わる者もあり、紀元前950年頃ファラオに即位したシェションク1世はリビア系傭兵の出自だった。

 紀元前7世紀、海路フェニキア人やギリシャ人が地中海岸に入植するようになる。キュレナイカにはキュレネ、バルカなどのギリシャ人都市が、トリポリタニアにはレプティス・マグナやサブラタなどのフェニキア人都市が建設された。特にキュレナイカはギリシャ本土への重要な穀物供給地となる。
 トリポリタニアはフェニキア人都市国家カルタゴの、そしてキュレナイカは紀元前4世紀末にエジプトのプトレマイオス朝の支配下に入ったが、それぞれ紀元前146年、紀元前30年にローマ帝国に滅ぼされ、リビア全域がローマ帝国の版図に組み込まれた。ただし内陸のフェザンにいるベルベル人にはローマ帝国の威信は及ばなかった。
 やがてローマ帝国は衰退期に入り、395年に東西分裂する。キュレナイカは東ローマ(ビザンツ)帝国の、トリポリタニアはゲルマン系のヴァンダル族の占める所となった(429年)。ヴァンダル族やベルベル人の略奪でリビアの諸都市は衰退した。
 6世紀後半にはビザンツ帝国が地中海全域に版図を拡大しローマ帝国復活を思わせたが、アラブ人のイスラム教徒軍に攻撃され衰えた。アラブ軍は643年にキュレナイカ、647年にトリポリタニアを征服、さらに670年までに内陸のベルベル人をも屈服させ、以後リビア住民のイスラム化・アラブ化が進むことになる。

 その後リビアはエジプトや北西アフリカのイスラム王朝の支配するところとなった。1146年にはシチリアのキリスト教徒軍がトリポリを攻撃している。リビアの住民の多くはアラブ系やベルベル系遊牧民であり、彼らはアフリカ内陸部と地中海との間での黒人奴隷や象牙、砂金の交易や、イスラム教の拡大を担った。海岸部は14世紀以降、コルスと呼ばれる海賊の巣窟となった。
 地中海交易に依存するイタリアの都市国家やスペインはこの海賊に悩まされる。1509年、スペインは海賊鎮圧のためトリポリを攻略し、マルタ島のヨハネ騎士団に与えた。対抗するようにトルコのオスマン帝国も1517年にエジプトを征服してリビアの土侯を服属させ、1551年にトリポリを奪取して総督を置いた。こうしてオスマン帝国は三大陸にまたがる大帝国となった。
 オスマン帝国の支配が緩んだ1711年、アフマド・カラマンルが総督を倒し自立する。カラマンル朝も地中海での海賊行為を続けたが、イギリスやフランス、それに新国家アメリカはこれを許さずリビアを攻撃した(米軍による初の海外戦闘)。海賊は覆滅され、重要な経済基盤を失ったカラマンル朝は1835年にオスマン帝国に再征服される。
 一方1843年に設立されたイスラム教のセヌッシ教団は、オスマン帝国支配下のリビアで隠然たる勢力を持ち、反西洋運動の急先鋒となっていった。

 1861年に国内統一を果たしたイタリアは、遅ればせながら西欧列強による世界分割に加わった。オスマン帝国の弱体化や、列強によるモロッコ紛争を見たイタリアは、地中海対岸のリビアを狙って1911年にオスマン帝国に戦争を仕掛けた。イタリアは史上初めて航空機を戦争に使用して勝利し、翌年の講和でリビアを獲得した。
 しかし内陸を拠点とするセヌッシ教団の抵抗は根強く、特にキュレナイカを拠点とするオマル・ムフタルはイタリアを悩ませた。イタリアのファシスト政権は抵抗を徹底的に弾圧し、1931年にオマルを捕らえて処刑、ようやく鎮圧できた。リビアにはイタリア人10万人が入植した。
 第二次世界大戦でイタリアは地中海で連合国側のイギリスと激しく戦った。劣弱なイタリア軍はドイツ・アフリカ軍団の加勢を得たが、物量に勝るイギリスやアメリカには勝てず、1943年までに北アフリカから一掃された。
 リビアは暫くイギリスの軍政下に置かれたが、国連決議に従い1951年にセヌッシ教団の指導者イドリースを国王とするリビア王国が建国される。1953年にはアラブ連合に加わった。だがリビアには従来通り英米軍が駐留していた。

 ほとんど産業のないリビアは世界の最貧国の一つだったが、1958年に最初の油田が発見され、1961年に生産・輸出が始まった。しかし油田開発は英米企業に任され、富は一部の国民に独占された。その富裕層は欧米文化に傾倒し、国民の不満が高まった。
 1969年、国王の外遊中にカダフィ大尉率いる将校団がクーデタを起こし、共和制が樹立された。エジプトのナセル大統領が主唱する汎アラブ主義の影響であり、増大する貧富の差や欧米文化の流入に対する反応でもある。翌年カダフィはイタリア植民者をリビアから追放し、英米軍を撤収させソ連に接近、外国企業が所有する油田や銀行を全て国有化した。
 しかしカダフィの抱いたアラブ統一の理想は実現しなかった。その本家であるエジプトとの連合協議は失敗し、国境紛争すら起きる。その後もアラブ連合のチュニジアやモロッコと連合条約を結ぶが、リビアが外国人労働者を追放した1985年には一時チュニジアとの外交関係が断絶した。
 一方南隣のチャドとは1973年の国境紛争を始めに戦闘を繰り返し、チャド内戦中にはその北部を占領した。1989年に和平条約を結び撤退、1994年にハーグ国際法廷がリビアを非とすると、国境係争地からも撤退した。

 リビアは1980年代に反米・反イスラエル組織を支援し、欧米諸国との関係が急速に悪化する。1985年にベルリンで起きた爆弾テロ事件に関与したとして、翌年アメリカはリビアに対し経済制裁を開始、さらにカダフィ殺害を狙ってトリポリを空襲した。1988年にはイギリス上空でパンナム航空機が爆破される事件が起き、これもリビアが関与したとされた。
 ソ連崩壊や湾岸戦争後の1992年、アメリカはパンナム機事件への関与を理由に国連安保理で対リビア制裁を発議した。後ろ盾を失い、またイラクを支持して孤立していたリビアはその議決を座視するよりなかった。石油輸出を制限されたリビア経済は苦境に陥り、カダフィは1994年にイスラム法を導入して体制の引き締めを図った。
 1999年、リビアは孤立回避のため方向転換してパンナム機事件の容疑者をハーグ国際法廷に引渡し、国連は制裁を停止した。またイスラム過激派による欧米人誘拐事件の解決を仲介、さらに2001年にアメリカ同時多発テロの犯人を非難するなど(台頭する国内のイスラム原理主義組織への牽制でもある)、欧米への歩み寄り姿勢を明確にした。
 イラク戦争があった2003年に国連の制裁を解除され、また米英両国との秘密交渉の結果、リビアは大量破壊兵器計画の廃棄を発表した。核実験停止条約を批准したことを受け、アメリカも経済制裁やテロ支援国家指定を解除、国交正常化した。
 制裁を解除され経済開放に転じたリビアに対し、EU諸国が投資を行っており(日本企業も石油採掘権を落札)、原油高も手伝ってリビアは高成長を維持しており、またEUはアフリカからの不法移民対策での協力を模索している。一方で昨年12月のブルガリア人看護婦に対する死刑判決など、司法の不備や言論の制限といった人権状況を欧米諸国に批判されている。


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